日本最初のプロレスラーとアンティークラジオ
- 2017/06/02
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闘うというのは本能だから
まあ、何でといわれましても「本能だから」としか答えられないのですが、男子は闘いが大好きです。闘っているのを見るのが大好き、そして隙があらば闘おうとするものです。
このことは40年にわたって、戦隊やライダーのシリーズが続いていることで証明できます。加えて、女子も闘いが嫌いではないということは10年以上の長きにわたり、プリキュア・シリーズが人気であることを見てもわかると付け加えておきます。
日本のプロレスは、こんな風に始まった
「浦賀沖に来航したペリー艦隊の乗員と、日本の力士が相撲を取った」。
これをもって日本のプロレスの萌芽とすると、ベースボール・マガジン社の「日本プロレス全史」には書かれています。ペリーに随行して来たボクサーやレスラー対相撲取り、日本のプロレスの最初は異種格闘技戦だったのですね。
大いに見た目が違う異人を見たら、強そうだと思いますし闘っている様を思い描いてワクワクするのはしょうがないこと。
まだ見ぬ強豪外人に胸を躍らせていた、全日本プロレス・チャンピオンカーニバルのワクワク感、江戸時代末期の人々も同様の胸の高鳴りをペリー艦隊に感じていたのでしょう。
そして、闘っているのを見るだけでなく、腕っ節に覚えがある人は自身が闘ってみたくなるもの。「じゃあ俺もまだ見ぬ異人と闘ってみたい」とばかりに、ペリーが来航した30年後、極東の日本から、遥かアメリカへ渡った人がいます。
海を渡った、スモウ・レスラーは
その人の名前は松田幸次郎、序二段の力士で四股名を荒竹寅吉。福井県出身の漁師の息子だったといいますから、まあ浜の男らしく気も荒かったのでしょう。
思った通りに出世できない、既存の相撲団体に嫌気が指していたのかどうなのか、彼がプロレスラー募集の話に乗って米国に渡ったのが1883年、これが日本人レスラーの最初であるとは「日本プロレス全史」から。
その後、荒竹寅吉こと松田幸次郎は「ソラキチ・マツダ」というリングネームで大活躍し、1885年には米国永住権を取得、米国人女性と結婚したといわれています。
ヒロ・マツダは、ソラキチからあやかったものだった
その後、彼についての情報は残されていないのですが……まあ、海の向こうから来たソラキチ・マツダは、強さや物珍しさもあって興行の目玉だったのでしょう。そのことは、今に残る言い伝えからも知ることができるのです。
例えば、あのハルク・ホーガンをコーチしたことで知られるヒロ・マツダ。南米、そして北米で大成功した後に度々来日、アントニオ猪木と繰り広げたジャーマン・スープレックス合戦は未だに語り草となっている名レスラーなのですが、彼の本名は小島泰弘、マツダと何の関係もありません。
小島氏のリングネーム「ヒロ・マツダ」はプロモーターから付けられたもの。もちろん伝説のプロレスラー、ソラキチ・マツダにあやかったといいますから、ソラキチが作ったマツダのイメージは数10年前までは健在、ブランド力も相当なものがあったのでしょう。
そしてアンティークラジオにも「MAZDA」の文字が
先日、お寺の境内で開かれている骨董市を見て歩いていたら「MAZDA」と書かれたラジオを見つけて驚いたのです。
「ソラキチ・マツダの影響はこんな所にも!!」……と思って調べてみたら、MAZDAとは東芝が持っていたブランド名。ゾロアスター教の最高神、アフラ・マズダにちなんだもので、伝説のレスラーとは何の関係もなかったのでした。
明治時代に自身の腕一本で海を渡って名を成したソラキチ・マツダ、そして古いラジオに書かれていたMAZDAの文字。両者に共通するのは音の響きだけではあるものの、何となくロマンを感じましたよ、という報告でした。
あ、自動車メーカーのMAZDA、こちらもゾロアスター教に習ったらしいということを、付け加えておきます。