惜しくも亡くなった野球人「星野仙一」の凄さを改めて振り返る
- 2018/04/14
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「闘将」の功績
2018年1月に他界した星野仙一さん。
現役通算146勝・監督通算1181勝というその数字以上に野球界に多大な貢献をし、多くの人が早過ぎる別れを悲しみました。
そんな星野仙一さんが残した、功績の一部を振り返りたいと思います。
選手時代
今でこそ監督としてのイメージが強い星野仙一さんですが、選手としても超一流。
東京六大学リーグで23勝24敗、防御率1.91という実績を作り、1968年にドラフト1位で中日に入団。
以降中日一筋14年間で、5年連続二桁勝利を含む146勝を積み上げます。
特に巨人キラーとして名を馳せ、1974年には沢村賞を獲得する活躍を見せ巨人のV10を阻止。
ちなみに初代セーブ王となったのもこの年の星野仙一さんで、先発もリリーフもこなし15勝9敗10セーブという数字を記録しています。
ミスタードラゴンズに数えるファンも多く、その実力だけではなく闘志を露にするキャラクターでも人気を呼びました。
1982年に引退。
ファンに向けて「私はついに燃え尽きました」と挨拶を行いましたが、その火は再び監督して燃え上がることになります。
中日監督時代
引退後は解説者や評論家として、グラウンドの外から野球を見ていた星野仙一さん。
そして満を持し、1986年オフに中日ドラゴンズの監督に就任します。
1年目となる1987年はそれまで2年連続5位に落ち込んでいたドラゴンズを2位に引き上げ、チームを闘う集団に変貌させます。
そして翌1988年は、後にミスタードラゴンズと呼ばれる高卒ルーキー立浪和義をショートに抜擢。
小野和幸・小松崎善久・郭源治などを擁する投手陣と恐竜打線と呼ばれた野手陣が噛み合い、チームは優勝します。
その後は3位4位を経て1991年に退陣しますが、1995年オフに復帰。
2001年までの長期政権を築き、1999年には二度目の優勝を果たしています。
阪神監督時代
中日の監督を辞任した星野仙一さんは、休む暇もなく今度は阪神タイガースの監督に就任。
球団が星野仙一さんの獲得に動いたのは、前監督である野村克也氏の推薦があったからだと言われています。
タイガースは前年まで4年連続の最下位に沈んでおり、所謂「暗黒時代」。
星野仙一さんは就任早々積極的に意識改革や補強に動き、それもあって就任1年目から一時は首位を走るなどチームは変貌します。
後半に失速し4位に終わりましたが、オフに金本知憲・伊良部秀輝・下柳剛といった大物を獲得しチームを更に強化。
生え抜き選手も躍動し、最下位常連だった阪神は星野監督就任からわずか2年で優勝することになりました。。
しかし持病もあり、その年限りで監督を勇退。
その後は球団のシニアディレクターに就任し、フロントからチームのサポートを行いました。
楽天監督時代
北京五輪で日本代表の監督も務めた星野仙一さんは、2010年オフに楽天ゴールデーグルスの監督に就任。
タイガースと同様に最下位に沈んだチームの建て直しが、星野仙一さんに託されることになりました。
2011年5位、2012年4位と確実にチーム力を上げていったイーグルスは2013年についに優勝。
日本シリーズも制し、星野仙一さんにとって自身初の日本一を経験しました。
この年、エースの田中将太選手は24勝0敗1Sという歴史的な数字を記録。
そんな田中将大選手の退団もあって翌2014年は6位に終わり、星野監督自身も成績不振や体調不良による途中離脱を理由に退任。
しかし監督して3球団で優勝を達成したのは、長いプロ野球史上でもわずか3人しかいない偉業となります。
その名は永遠に
3球団を優勝に導き、多くのファンに愛された闘将。
そんな星野仙一さんを失ったのは、野球界にとって大きな損失となります。
あまりにも惜しまれますが、その功績は永遠に消えることはありません。
星野仙一さんという野球人がいたことは、これからもずっと語り継がれていくことでしょう。