情勢が不安定な今だからこそ思い出したい、第二次世界大戦の原因と終焉

  • 2017/05/21
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第二次世界大戦開戦までの道のり

第二次世界大戦開戦までの道のり

まず、1937年盧溝橋事件をきっかけとして、日中全面戦争が勃発しました。国際連盟では対日経済制裁が始まります。
この時、アメリカはモンロー主義の立場から、対日経済制裁に積極的ではありませんでした。

しかし、日独伊三国同盟が締結されると、アメリカは、鉄と鋼鉄を日本に輸出することを禁止しました。

さらに、1941年の日本軍の「仏印進駐」は、日米関係に決定的な亀裂を生み、アメリカは石油輸出の禁止を決定します。

資源に乏しい日本は窮地に陥り、資源獲得を目的とした南方進出を模索します。

日米交渉も行われていましたが、いわゆる「ハルノート」を最後通告であると受け取り開戦を決意します。

 

日本の攻勢

1941年12月8日の日本海軍の真珠湾攻撃によって、ついに日米戦争が勃発

そして、1941年12月8日の日本海軍の真珠湾攻撃によって、ついに日米戦争が勃発しました。このときのアメリカの損害は、戦艦5隻、航空機200機など、アメリカ太平洋艦隊はほぼ壊滅します。一方、マレー半島では南方作戦を開始、日本陸軍はイギリスと交戦状態になり、シンガポールの占領によってイギリス軍は降伏しました。

そして1942年1月には、日本軍はオランダとも開戦します。日本軍はボルネオ島、ジャワ島、スマトラ島を占領、同じころフィリピンも占領し、これにより南方の石油資源と日本本土への輸送路を確保しました。

次に日本軍は占領地域の維持、防備を目的として米豪遮断作戦を展開します。

6月にはミッドウェー海戦が勃発、日本海軍は空母4隻喪失など大損害を受け戦いの主導権は連合国側へ移ります。

 

連合国の反撃

日本本土はマリアナ諸島から発進したB-29の空襲を受けるようになり、本格的に講和への道を模索し始めました

連合国軍は反攻拠点として、ソロモン諸島のガダルカナル島へ目標を定め、日本はソロモン方面の制空権確保のため、同島で航空基地を建設していましたが、そこにアメリカ軍が上陸してきました。

日本軍は半年間に戦死・戦病死者2万人以上という大損害を出して敗退、以降防戦一方となり、窮地に陥りました。

やがてアメリカ軍はマリアナ諸島を占領、日本本土空襲のための飛行場を手に入れます。

その後にはフィリピンでの戦いが起こり、これに敗れた日本は南方からの資源輸送ルートが閉ざされ、戦争継続が難しくなります。

このころから日本本土はマリアナ諸島から発進したB-29の空襲を受けるようになり、本格的に講和への道を模索し始めます。

 

そして終戦へ

終戦への道のり

敗戦が濃厚となった日本ですが、最後に一撃を与えて有利な条件を引き出そうとする一撃講和論に固執していました。

その一方で、ソ連を仲介とした和平交渉に望みを託してもいました。

その間にも日本本土はアメリカ軍の空襲を受け、遂には、東京大空襲では10万人以上の死者を出します。

1945年3月には沖縄戦が始まり、3か月の戦闘の結果沖縄守備隊は全滅、民間人も約20万人が犠牲となります。

7月にはポツダム宣言が発表されますが、日本はこの時点で、未だソ連の和平仲介を期待しておりこれを黙殺しました。

しかし8月に広島・長崎に原子爆弾投下、ソ連の対日参戦により追い込まれた日本はポツダム宣言受諾を決定し、最終的に日本は降伏し、終戦となった訳です。

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