在りし日の歌姫に今一度テレビで歌わせるのは酷か
- 2019/02/17
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それは1通のメールから始まった
しばらく会っていなかった友人から何の前ぶれもなく、「ZARDと麻衣ちゃんがデュエット!今晩のミュージックステーションにて。Don’t miss it !」(原文ママ)というメールが突然届いた。
残念ながら、メールに気がついたときはすでに本番は終わっていた。
しかしその瞬間は何のことかわからず、慌てて新聞のラテ欄を調べると、どうも最新技術を使って在りし日のZARD・坂井泉水さんと倉木麻衣さんがデュエットをする(ような)趣向が組まれていたらしい。
友人は麻衣さんの、自分は泉水さんの大ファンでなので、取り急ぎ知らせてくれたらしいが、その後本番をチェックした友人から「最新技術ってやつで『負けないで』をほんとにいっしょに歌ってたぞ!」と再び興奮メールが届いたから、かなりのデキ映えだったのだろう。
しかし、この手の演出には賛否両論あってしかるべきで、とくに坂井さんは故人であることからかなりハッキリした演出意図がないと「いったい今頃何のために?」という声が出てもおかしくない。
今回の演出に限らず、音楽業界ではこの手の手法が数年に一度大イベント等で使われているが、ファンはこのまま受け入れていいものなのだろうか。
あれは親子だからこそわかりあえる例
この流れをくむ演出で近年オジサンの心に最も強く残るものといえば、ナット・キング・コール&ナタリー・コール親子がデュエットした「アンフォゲッタブル」だろう。
自分はまずアルバム「アンフォゲッタブル」を購入し、冒頭でいきなり2人のデュエットが始まったのを聞いてすっかり興奮、その後グラミー賞などでも父の画像と歌う娘の姿が大写しで流れ、「これは反則的に良い雰囲気だよなあ」と感じ入ったものだ。
残念ながら現在は2人とも亡くなっているが、当時は娘のナタリーが健在だったため、最終的に娘の了承さえあれば企画自体はスムーズに進む案件だったろうと思う。
そしてまた2人が親子であったことも、他人が割って入れない絆を示すものとして大いに成功した側面だろう。
振り返って、坂井泉水さん&倉木麻衣さんペアには、その点の必需性や関係性が希薄であることは否めない。
もちろんいい企画なのだが、突っ込みどころも満載の感がしてならないのである。
故人ライブなるビジネスをどこまで許容できるか
実は坂井泉水さんに関しては、亡くなって9年目の2016年にデビュー25周年記念追悼ライブが開催されている。
お別れの会にまで駆けつけたファンとしてはかなり迷ったのだが、結局オジサンがライブに行くことはなかった。
これも坂井さんのボーカルと映像がステージ上にふんだんに使われ、それを生バンドとうまくシンクロすることで、臨場感満載の、あの頃の坂井さんを思い出させるライブに仕上がっていた様子。
坂井さんという人物は、ライブでこそ一番輝いた女性アーティストであり、語りは少なくとも彼女の生歌生声がつむぐメッセージこそが全てであったと言える。だからこそのライブ企画だろうし、またファンも好意的だったのだろう。
一方、海の向こうでは「故人の立体画像(ホログラム)によるライブツアー」なるものがすでにビジネスとして成り立っているという。
ファンが死後のアーティストに何をどこまで望むかは人それぞれだが、これも技術が発展したがゆえの悩み、というべきものだろうか。
懐メロとは違う違和感も
よく年越しに放送される懐メロ歌番組は、オジサンでもちょっと背伸びしないと思い出せない大ベテランの集合体になっている。
中にはもう現役時のような声が出ない方もいるが、しかし決してそれに代わる彼らの「ホログラム」を見たいとは思わない。
私も歳をとった、アナタも歳をとった、それはおたがいさまだから、昔を懐かしみ、今の自分を許容すればいいじゃないか、そんな感じの歌番組でいいと思っているからだ。
声が出ないオバサン演歌歌手を「劣化」と蔑むのは簡単だが、いいときの声を聞きたければレコードを買えという話。
人生の荒波を乗り越え、たどり着いた先でまた歌を口ずさんでいるのだから、オジサンにはその様子が手に取るようによくわかり、歌が染みるわけで…。
たとえショーマンシップであっても、生きている人を生かし、亡くなった人を心安らかに眠らせる、という大前提を簡単に崩して欲しくないのが正直なところだ。