大相撲でもバラエティでも大人気だった「輪島」はすごかった!
- 2018/10/21
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大横綱輪島とはこんな人物
相撲ファンではないオヤジや、テレビであっても滅多に相撲を見ないオヤジであっても、北の湖や千代の富士、若貴兄弟横綱、曙、朝青龍、白鵬、日馬富士といった名前は知っているでしょうし、顔も思い浮かぶという人は少なくないはず。
もっとも、相撲そのものよりも場外乱闘的な知名度のおかげという横綱もいたりしますが…。
そんな大相撲の横綱の中で、ヒトキワ異彩を放っていたのが輪島です。本名を輪島博といい、名前の表記を「大士」として読みは同じワジマヒロシという四股名で活躍していました。その輪島氏が、去る10月8日に70歳で生涯を終えたという報に接し、各界から惜しむ声が続出しているのです。
ちなみに、出身地が石川県ということで四股名を「輪島」にしたと思っているオヤジもいるようですが、これは勘違いでした。
さて、輪島氏は日大相撲部に所属する学生横綱として将来を期待される存在でした。そのまま1970年に花籠部屋に入門するや、破竹の進撃で十両、幕内と進み、1972年には大関昇進を果たしています。
さらに、翌年には横綱昇進を決めて、スピード出世に大学出身横綱、しかも本名といった従来のパターンを打ち破る活躍もあって世間を大いに沸かせたのでした。
1981年に引退するまで、8年近く横綱の座にいたわけで、その名が轟いているのも当然といえます。しかし、輪島氏の凄いのはそれだけではありませんでした。ナント! 年寄株を借金の担保にしていたという前代未聞の不祥事が発覚し、協会での地位も急降下。
その後、プロレスラーとして再起を図ることになります。
レスラーからテレビタレントへ
1986年に全日本プロレスに加入するや、多くの話題を集め、一定の評価も受けていますが、わずか2年で姿を消してしまいます。年齢的には若くないものの、プロレス界ではアラフォーならまだまだやれる年齢です。
プロレスラー時代の輪島氏は、自身の試合そのものでは特筆するような大きな出来事はなかったようです。しかし、低迷していたテレビ中継の視聴率アップに貢献したり、元横綱のガチンコ勝負が他のレスラーに刺激を与えたりなど、その後のプロレス界に残した影響は大きかったといわれています。
そして、大相撲の横綱からプロレスの人気選手という路線を歩んできた輪島氏は、ついに芸能界の扉を開けました。いまに至る輪島人気の少なくない部分を、この芸能活動で固めたといっても過言ではないでしょう。
一般的にオヤジがイメージする横綱、プロレスラーといった荒々しい存在とはまったくかけ離れたキャラクターがそこにはあったのです。いま風にいえば「ゆるいキャラ」といったところでしょうか。いわゆる天然ボケで、それまでの経歴と似ても似つかない様子が楽屋裏からお茶の間にまで支持を広げたといえます。
横綱輪島のファンだったお年寄りには衝撃的だったかもしれませんが、新たな一面として受け入れられた部分もあったでしょう。
戦う男とのギャップが面白かったわけですが、それだけではありませんでした。スキャンダルで相撲界を追われたカタチになったものの、人望は厚く、さまざまな業界の一流人と交流を持っていたようです。
オヤジ世代でも若い方の人には「輪島って誰?」という人もいるでしょう。しかし、大相撲で優勝14回は歴代7位という大記録。しかも、昭和後期の出来事ですから、まだまだ知名度が落ちるほど昔の話でもありません。
晩年はガンのため言葉を発することができなかったようですが、最後は穏やかだったと伝えられています。
関わってきた業界で、大きな足跡を残して逝った輪島氏。テレビコマーシャルや映画、歌も出した輪島氏。いまならよくある話でも、当時としてはパイオニア的存在の一人です。本当にすごい人でした。ご冥福をお祈りします。