旧日本軍の戦艦「扶桑」「山城」などを発見か?どんな戦艦だったのか紹介!
- 2017/12/20
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旧日本軍の「扶桑」「山城」発見か?
旧日本軍の艦艇は、太平洋戦争によって多くが撃沈されていました。撃沈されたなかには、発見されていない艦艇も多くあります。そんな中で、資産家のポール・アレン氏の調査チームがフィリピン南部の海中で戦艦「扶桑」「山城」などとみられる5隻を発見したのです。ちなみに、ポール・アレン氏は米マイクロソフトの共同創業者であり、2015年には戦艦「武蔵」を発見しています。今回は戦艦「扶桑」「山城」など5隻とみられる発見なのですが、旧日本軍の「扶桑」「山城」とはどんな戦艦なのかについて紹介していきましょう。
戦艦「扶桑」とは?
「扶桑」は旧日本軍の大日本帝国海軍の戦艦であり、扶桑型戦艦の1番艦です。1912年に起工され、1915年に就役されました。戦艦「扶桑」は、日本では初となる超弩級戦艦です。ちなみに、超弩級戦艦の定義とはしては、イギリス海軍のドレッドノートの規模を超える戦艦や巡洋戦艦のことを指しています。
そんな「扶桑」は、失敗の部類に入る戦艦でした。35.6㎝連装砲を6基搭載していたのですが、配置が悪く撃つと爆風が艦を覆ってしまったとのことです。そのため、砲煙によって観測が上手くできませんでした。また、最大速度は22.5ノットと速さがありません。そのせいで主要作戦にほとんど参加できなかったのです。大日本帝国海軍の中でも比較的、人気の高い戦艦なのですが不幸な戦艦とも言えます。
戦艦「山城」とは?
「山城」は旧日本軍の大日本帝国海軍の戦艦であり、扶桑型戦艦の2番艦です。戦艦「扶桑」とは姉妹艦です。1913年に起工され、1917年に就役されました。「扶桑」は欠陥のある戦艦だったため、姉妹艦である「山城」にも批判はあったようです。そのため、建造途中から変更点が多くあり、「扶桑」「山城」は姉妹艦ながらも細かい部分で違いが多い戦艦となっているのです。そんな「山城」ですが、やはり実用性は低くあまり作戦に参加していません。そのため「山城」は、練習艦として過ごした時間が長いのです。
「扶桑」「山城」の最期
戦艦「扶桑」「山城」の最期は、それぞれレイテ沖海戦で迎えています。レイテ沖海戦とは、1944年10月23日~25日にかけてフィリピン周辺近海での旧日本軍とアメリカ海軍・オーストラリア海軍ら連合国軍との海戦です。旧日本軍は艦艇の多くを投入しており、「扶桑」「山城」も投入されました。
レイテ沖海戦では、旧日本軍は壊滅的な敗北をしています。そして、「扶桑」「山城」も撃沈されました。「扶桑」は10月25日のスリガオ海峡夜戦で魚雷が命中して大爆発し、沈没しています。また、「山城」もスリガオ海峡夜戦にて魚雷を受け、艦放射撃まで受けて火災が発生し沈没したのです。戦艦「扶桑」「山城」の姉妹艦は、ともにスリガオ海峡夜戦にて沈没してしまっていたのです。
発見されたとみられる「扶桑」「山城」について
そんな「扶桑」「山城」とみられる艦船が、ポール・アレン氏の調査団によって発見されたのです。発見された場所はスリガオ沖の海底であることが発表されています。まさに「扶桑」「山城」が沈没した場所の海底で見つかっているのです。また、「扶桑」「山城」は上下逆さまの状態であり、船体はひどく壊れた状態であるとのことです。
ちなみに、「扶桑」「山城」以外にも駆逐艦の「満潮」「朝雲」「山雲」とみられる船体まで見つかっています。それぞれレイテ沖海戦で沈没している駆逐艦です。いずれにしても、亡くなられた方には哀悼の意を表したいと思います。また、そっと静かに眠らせてあげたい反面、遺骨を日本に戻してほしいと思う気持ちもあります。このような思いにならないで済むように、今後日本が戦争に参加しないことを願っています。