大きさは、そこまで重要なのか?日本の巨根伝説・道鏡
- 2019/03/12
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国を割る、大騒動の発端となった巨根
私、アントニオ犬助は極度の近眼なので、何ともわからないのですが、世の男性たちはサウナなどで、自身の何の大きさをよそ様と比べたりするらしいですね。そして心の中で、勝った負けたとかやっているといいます。そんなに大きさが重要なのか?と、犬助は不思議に思いますし、女性ではないので実際のところはどうなのか?は、うかがい知ることができないのです。
しかし何の大小というのは、昔から洋の東西を問わず関心事だったよう。その証拠に、数々の巨根にまつわる話が残されているのですが、今回ご紹介したいのは、日本古来より伝えられる伝説級の一本。国を二つに分けかねない、大変な騒動を巻き起こした道鏡の巨根です。
妄想か、それとも現実か?道鏡、大出世の理由
奈良時代に活躍した道鏡は法相宗の僧侶だったのですが、太政大臣、つまり政治のトップの地位に就くという大出世を遂げています。そのきっかけは、孝謙上皇の母親の看病をしたことというのですが、それだけだったら医学の才や、政治能力の高さで評価されていたことでしょう。しかし問題は孝謙上皇が女帝だったこと。坊主と女帝というカップリングは人々の想像力をたくましくし、巨根だったに違いないという妄想を生み、様々な俗説を今に残しています。
江戸時代の川柳いわく「道鏡は 座ると膝が 三つでき」、また二人の様子は「朝を視ざること百余日」というものだったとか。坊主の巨根そして夢中になっている女帝……本当にこの通りだったのかどうかは別としても、道鏡はとんとん拍子に出世していき、宮中での発言力も増していったのは事実です。
遂には、天皇の座をうかがうまでに増長
それに危機感を抱いたのが、彼のライバルである藤原仲麻呂。時の淳仁天皇と共に、道鏡の失脚を狙って反乱を起こします。これが教科書にものっている「藤原仲麻呂の乱」なのですが、この争いに敗れた仲麻呂は失脚してしまいます。すると孝謙上皇は称徳天皇として再即位、じゃま者はいなくたったとばかりに、道鏡を太政大臣と法皇のポストにすえてしまう。つまり政治・宗教両方のトップにしてしまったのです。
こうなってしまうと道鏡は、やりたい放題です。そして調子に乗ってしまったのでしょう、自身を天皇の位に付けよという神のお告げがあったという「宇佐八幡宮神託事件」を起こし、天皇の座をうかがうまでに増長します。しかし、さすがにまずいと思った称徳天皇からストップがかかり、たくらみは失敗してしまうのです。その後、称徳天皇は崩御、危険人物と目されてしまった上に、後ろ盾も失った道鏡は下野国(現・栃木県)薬師寺へ左遷され、そこで一生を終えています。
女帝の心のスキマにマッチした巨根
孝謙天皇から上皇、そして称徳天皇と称した女帝の治世は、西暦で749年から770年。父・聖武天皇に譲位されてスタートしたのですが、彼は全国に国分寺や国分尼寺を建てまくるわ、都には東大寺を建てて巨大な大仏も造るわで、国家の財政を逼迫させた人物でした。その後を受けた称徳天皇のプレッシャーたるやいかほどのものだったか。そして頼みの綱である母親の光明皇后が病気に倒れた際には、どれほど不安だったか。これらは想像することができるでしょう。
そんな女帝の心のスキマに入り込んできたのが、道鏡という存在。この時の彼は推定で60歳前、彼女は40歳過ぎ。まあ、後の世の人が妄想をたくましくするのに、それぞれ適当な年齢でもあるのです。加えて、女帝は生涯伴侶を持つことをしませんでしたから、人々の妄想が暴走してしまったのもしょうがない。誰も見たことがないとはいえ、火のないところに煙は立たないのです。
権力争い、山上憶良の貧窮問答歌でもわかる通り庶民の暮らしは苦しいと、彼女の治世は決して安定してはいませんでした。その側で称徳天皇を支え続けた道鏡が出世したというのも、きっと巨根のお陰ばかりではなかったはず。恐らく政治的にも、非常に有能な人物だったのでしょう。にもかかわらず、今に伝わるのは「道鏡=巨根」という伝説のみ。「その通り」とほくそ笑んでいるのか、「何の話ばかりじゃねえか」と怒っているのか。あの世の道鏡の心はうかがい知ることはできないのです。