日本人なら空手のルーツくらいは語れるようにしておくべき
- 2019/01/06
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空手は有名な日本のスポーツ
海外に出かけたことのある人なら経験があるかを聞きたくなることがあります。
それは「日本人なら空手をやって見せて欲しい」と言われたことがあるかどうかです。
それほど日本人と空手は密に繋がっていると思われているのではないでしょうか。
実際には空手の経験のある日本人などほとんどいませんので、見よう見まねで「エイ、ヤー」とか声を上げて手足を気分に動かすだけでしょう。
個人的にはそれでも海外の人は喜んでくれたこともあります。
そんな空手を今更、始めようとはなかなか思わないでしょうが、いかにして空手が日本に生まれて根付いているのかその歴史くらいはスラスラと言えるとどうでしょうか。
なぜかいかにも日本人を知っているようではありませんか。
中国伝来の武術だった
空手の原型は中国の武術だとされています。
確かに中国には古くから数多くの中国拳法が各地に定着していたようです。
それが海を渡って沖縄に伝わり、沖縄で独自のスタイルに変化していったものが今日の空手になっているのです。
空手の型の名前が沖縄の言葉になっていることからもそれははっきりしています。
沖縄では中国拳法が「手」と呼ばれるようになり、それが各地でその地域の名前を付けられるようになったのです。
そして主流となったのが首里手、那覇手、泊手の3つです。
剣術に柳生新陰流などのような流派があるのと同じようなものです。
このうち首里手が唐手へ、そして空手へと変化していったのです。
空手の誕生普及に関わった3人のキーパーソン
・首里手の大成者:松村宗昆(まつむらそうこん)
首里手が他の流派を押しのけて空手へと成長したことに関わった人物が松村宗昆です。
19世紀前半の琉球王国の役人で中国拳法で師範代まで努めていたとされています。
中国拳法を首里手として独自の精神と技術に昇華させたと言われているのです。
・唐手の大成者:糸洲安恒(いとすあんこう)
糸洲安恒も琉球王国の役人で松村宗昆の弟子でした。
唐手がまとめられたのは1879年の廃藩置県がきっかけになっています。
新しい教育制度の下において体育の一環として唐手が組み込まれたのです。
これを担当することになったのが糸洲安恒でした。
1905年に学校教育の一環となるべく首里手の型をベースに新しい型を唐手として考案し、中学校の体育で必修授業として組み込まれたのです。
糸洲安恒は唐手を教育を通じて子供の頃から馴染めるものとして普及に貢献しようとしたのです。
ですから動きはのびやかであって本来の武術的な危険な技は排除し、心と身体を成長させることに主眼を置いた型となりました。
・空手の大成者:富名腰義珍(ふなこしぎちん)
唐手が沖縄から海を渡って日本本土に渡ったきっかけは、1921年に富名腰義珍が国が主催した第1回体育展覧会で演武したこととされています。
また、型の演武要領である「琉球拳法唐手」も発行されています。
ただしここで掲載された型は、糸洲安恒の考案した唐手の型とは違って首里手や泊手に近かったもののようでした。
言われてみれば、確かに現代の空手を見ても攻撃的な武術らしい演技が目立つような気もします。
そのまま唐手として全国に広がり始めまたのですが、1928年に慶応義塾大学の唐手研究会が唐手と言う名称は日本には違和感があるとの意見が出るようになったのです。
唐と言う文字は日本ではあまり使われておらず、いかにも中国由来の拳法であることが前面に出されていることがその原因でしょう。
そして1936年に唐手に関する有識者や教師、軍人などの意見も踏まえ唐手を空手と正式に名称変更することになったとされ、以後、空手として全国に普及することになったのです。