貴乃花部屋問題の様に相撲部屋の移籍ってよくあることなのか?
- 2018/10/17
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そう起こらない、相撲部屋の移籍
元横綱・日馬富士の傷害事件に端を発した、貴乃花親方と日本相撲協会の対立は、貴乃花親方が協会から退職することで決着しました。人気横綱で将来の理事長との呼び声が高かったにもかかわらず、自身の完全敗北という形で終わってしまった貴乃花親方。
これと同時に貴乃花部屋は消滅、所属していた8人の力士や床山たちは、千賀ノ浦部屋へと移籍することになったというのですが、私、アントニオ犬助が気になったのは相撲部屋の「移籍」という言葉。
プロ野球の世界ならFAやトレード、自由契約になったところを拾われるなど、チームを移籍することは決してめずらしいことではありませんが、相撲部屋を移籍というのはあまり耳にしたことがありません。
そこで調べてみたところ、相撲で部屋を移籍するという場合は、師匠が定年や死亡、病気などで部屋を閉鎖せざるを得なくなったケースや、部屋付き親方が独立して「部屋持ち親方」になるケースぐらいで、そう起こるものではありません。
ほかには、親方同士の話し合いの末に力士の移籍を認めるというケースもないわけではないようなのですが、このケースはまだ前例はない。つまり部屋がなくなったり、新しくできない限りは力士の移籍はおこらないという。
部屋の師匠とおかみさんは実の父母同然、所属する力士は子ども同然なんていいますから、親子の絆同様、所属する部屋と力士の関係は簡単には切れないということですね。
部屋どころか所属も次々と変えた、常陸山関
ここまでを知って犬助は「さすが、伝統と格式を重んずる相撲だなあ……」などと思っていたのですが、大相撲の歴史を振り返ってみると、ひとつの部屋に所属し続ける力士ばかりではなかったことに気がつきます。
たとえば明治時代の名横綱として角界の発展に大きく寄与、「角聖」なる異名でも知られる常陸山関。
そんな彼ですら1890年に出羽ノ海部屋に入門するも、1895年には巡業中に部屋を脱走。その後、名古屋相撲、大阪相撲、広島相撲と部屋を移籍するどころか、当時は東京以外にもあった地方相撲へと次々と所属を変えているのです。
そんな常陸山関は、1897年に東京相撲へカムバック。元の出羽ノ海部屋に再び所属することになるのですが……当時の親方は常陸山関に激怒するどころか、帰参を涙を流して喜んだとか。なんといっても大相撲の黎明期、部屋や所属の移籍云々は水に流してでも、実力者は一人でも確保したかったというのが本音だったのでしょう。
国技と呼ばれる以前は、多くが部屋を移籍していた?
そんな常陸山関にもかかわらず、なぜ「角聖」としてあがめられているのか?
それは見世物に過ぎなかった大相撲の地位向上に尽力したから。武士道の考えを相撲に導入、国技と呼ばれるまでに格式を高めたから。
常陸山関が武士の出だったからなのか、自身の奔放な行動を省みたからなのか。
その理由はわかりませんが、現在の格式にこだわる大相撲の礎を築いたのは常陸山関だった。
逆にいうならば、大相撲が現在の格になるまで力士たちは、部屋を勝手に移籍していたということになるでしょう。
部屋の移籍を認めることで、相撲界の活性化を
近年は入門者が減少、外国出身の人材に頼ることが多い角界です。
その理由の一つに、相撲部屋に縛られ続けるという息苦しさもあるに違いありません。ならばプロ野球のFAではないですが、条件を定めて部屋の移籍を認めるというということも、もっとあってもよいのではないか? と思うのです。
これによって相撲界全体の風通しもよくなる、優秀な人材確保もかなうのではないでしょうか。
また部屋を移籍した力士は他の部屋のノウハウを学ぶことで、実力を高めることもできるはず。大相撲自体のレベルアップにも役に立つと思うのです。