後発薬は扱えないを変えた・後発薬会社・日医工ってどんな会社?

  • 2018/11/26
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  • 沖倉 毅
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処方箋薬局に行くと『ジェネリックにしますか?』と聞かれる事がある。

ジェネリック(後発薬)と薬効が変わらないのであれば、薬価も安い事だし、命に関わる重大な疾患でもない限り、
先発薬を無理に服用し続ける事もない。

先発薬を無理に服用し続ける事もない。

薬の服用は最小限に抑え、自己免疫力で病を治すに越した事はない。

そんなジェネリック医薬品だが、脚光を浴びる様になったのは、ここ10年ぐらい。
背景にあったのは流通市場の狭さと、医薬品業界が先発品を売りたがった事にある。

現在、日本のジェネリックの大手といえば、大阪市に本社を置く沢井製薬と、富山市に本社を置く日医工だ。
その中でも、業界トップとなった日医工の歴史と今について振り返りたいと思う。

 

富山の薬売りから始まった後発薬会社

日医工のはじまりは、現社長・田村友一氏の祖父が、家業である『富山の薬売り』をしていた事から話は始まる。

日医工の創業者で、現社長の父・四朗氏は、大学の薬学部に進学。
東京で薬を仕入れ、地元の医療機関に卸していたが、その窓口となったのは、
公立病院の薬剤部長だった現社長の叔父だった。

医療機関に薬を卸すうちに、四朗氏

医療機関に薬を卸すうちに、四朗氏は、これからは置き薬の様に、薬屋が決まった薬を箱詰めにして
会社に置いていく時代ではなく、患者目線で薬を選ぶ時代が来ると悟ったという。

そして、’65年、国民皆保険制度がスタートしたこの年に、日医工は、抗アレルギー剤のジェネリックで薬市場に参入。
創業して15年程までは、会社の成長は速く、業績を伸ばす為には、新薬開発もしていた。

日医工の新薬で後世に残るものと言えば、’75年から開発にかかり、’87年に発売となった
『セタペイン注15(エプタゾン臭化水素酸塩)』だ。
中枢神経に働きかけ、手術後の痛みを鎮静する薬として使用されていた。

中枢神経に働きかけ、手術後の痛みを鎮静する薬

だが新薬は開発費に膨大な費用と時間を費やす上、国の承認基準は年々厳しくなるばかり。
’89年に二代目として入社した友一氏が、専務となった’95年には、新薬からの撤退を余儀なくされた。

それだけでなく友一氏は、会社存続の為に苦渋の決断をしなくてはいけなくなる。
それは何だったのか。

 

製薬会社がリストラを行う理由は4つある

友一氏が専務時代、業績の傾いた会社の立て直しの為、大規模なリストラを行った。

大規模な製薬会社が毎年リストラを行うのは、一般のリストラの様に窓際族を切るのを除外しても、
4つのパターンが考えられる。

製薬会社がリストラを行う理由は4つある

1:コンパウンド(製薬会社が開発を進めている新薬)の反応が微妙だった
2:新薬の市場での反応が芳しくなかった
3:ライバル会社買収に多額の費用が掛かった
4:子会社などの事業整理

この中でも、日医工は4番目の理由でリストラを行ったものと見られている。
役に立つ、もっと働きたいという人員でさえ、退職勧告しなければいけなかったというのだから、
苦渋の決断だったかもしれない。

取引のあった銀行や代理店からは『日医工は危ないから取引はしない、融資はしない』と一蹴される日々。

日医工は危ないから取引はしない、融資はしない

そんな中、わずかな取引先や銀行が『厳しい時だからこそ支え合おう』と手を差し伸べてくれたからこそ、
今があると社長の友一氏は語っている。

専務上がりの二代目社長となると、先代が辞めた途端『ついていけない』と辞めていく
古参の社員もいたかもしれない。
二代目社長となった途端、業績が回復した理由は何だったのか。

 

後発薬は扱えないを変えた長期収蔵品の存在

’00年に社長となった友一氏は、営業と品揃えのテコ入れを最初に行ったという。
先代の時は一県一社の代理店で、自社の医薬品の品揃えが少なかった為に、他社の医薬品を売っていたという
営業体制を見直す事にした。

医薬品卸に出向いても『後発薬は扱えない』とそっぽ向かれた時代に、粘り強く交渉し続けた。
会社の医薬品の流通が軌道に乗り始めたのが、’14年に医薬品の長期収蔵品の価格をさらに引き下げる
『Z2』という制度が設けられた事だ。

後発薬は扱えないを変えた長期収蔵品の存在

長期収蔵品とは、新薬として開発、発売されてから特許、もしくは再審査期間が終了している医薬品で、
既にジェネリックが出ているもの。

価格が下がりジェネリックと扱いも同じ様になっている事から、日医工は、これらの医薬品の大手製薬メーカー、
卸と組み、自社後発薬の納入先を拡大していった。

後発薬に追い風が吹くまでは、つらく長い道のりだったという二代目社長。
従業員が彼を見捨てなかった理由は、社長自らが病院や薬品卸から受けるパワハラに耐え続けていた
背中を見ていたからだろう。

今の様に、薬一つをバラ売りする時代でもなかった昔は、後発薬の会社の立場は医薬品業界では弱者だった。
卸では取扱いはできないと門前払いにされ、病院では品切れを起こすと1時間も担当者に
説教を食らう社長の姿を目の当たりにした社員もいたという。

国内のシェアに奢らず、日医工は、日本の医薬品

国内のシェアに奢らず、日医工は、日本の医薬品のクオリティやパッケージの完璧さを生かし、タイ、
米国で現地法人を設立。

フィリピンやシンガポール企業と業務提供するなど世界に市場を広げている。
割安な原薬、バイオ医薬品の後発薬、海外開拓の三つを柱にして成長しようとしているのだ。

また同社は、30~40代の管理職を対象に『高志塾』という勉強会を開き、次世代の管理職候補を育成している。
これは社長の20代の息子が米国の現地法人に勤務していて、将来の管理職育成を見越しての人材投資だろう。

目指すは世界のジェネリック市場トップ10だという日医工、これからの活躍に目が離せない。

この記事の作者

沖倉 毅
沖倉 毅
ビジネスと国際関連をメインに執筆しています沖倉です。 転職経験と語学力を生かし、語学教師とフリーライターをしています。 趣味は定期的に記録会に出る水泳、3000本以上お蔵入り字幕なしも観た映画、ガラクタも集める時計、万年筆、車、ガーデニング、筋トレです。 どうすれば永遠の男前になれるかをテーマに、取材は匿名を条件に記事執筆に勤しみます。
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