江戸時代にも副業があった?!武士や農民の暮らしを豊かにした副業の歴史
- 2019/06/24
- ビジネス
- 2782view
- キャリア
- オヤジ
- お金
- キャリア
- 仕事
- 会社
- 副業
働き方改革の推進によって、副業を解禁した企業も増えてきている2019年。給与所得とは別の収入源を得るという方法は、実は最近になって始まったわけではありません。実は、遥か昔の江戸時代にも「副業」は存在していたのです。
武士や農民は、本業とは別の副業で稼ぐことで、家計の足しにしていたと言われています。この記事では、江戸時代のオヤジたちを救ってきた副業についてご紹介します。
江戸時代、不安定な農民の収入を支えた副業は〇〇だった!
<副業として「売薬」を始める農民たち>
江戸時代の幕藩体制下では、基本的に農民は農業のみに専念して働くことを命じられていました。
しかし、天候の影響を強く受ける農業は、日照りや水害などによって不作が続き、生命の危機を感じるほどの貧しい暮らしを強いられることも珍しくありませんでした。
当時の奈良県では、薬を顧客となる家へ置いておき、使った分のお金を取るという方法で売薬をする農民がいました。
今でも、一部の企業がこの「置き薬」という方法で薬を販売しており、「富山の薬売り」としても有名な商売方法です。
寺田幸治(1983)によると、
“特に売薬業は著名であり、高市郡、南葛城郡、北葛誠郡、磯城郡を主産地として感冒薬、胃腸薬、六神丸(漢方農民運動先進地における経済更生運動薬の一種)など各種の薬品を行商人が各家庭へ直接配置して販売するというもので、その行商範囲は全国各地に及んでいる”
という状態でした。
(引用元:寺田幸治 農民運動先進地における経済更生運動 : 奈良県磐城村の場合)
せっかく作った米の価格が暴落してしまうと、農民に残された手は、生活費を切り詰めるほか、行商として薬を販売するという副業で家計を潤すしかなかったのです。
<副業として工場で働く農民たち>
売薬の他に江戸時代の農民たちが副業としていたのは、工場での労働でした。
農業と異なり、工場勤務は少額ながら安定した収入を期待できます。
女性や子どもは「奉公」として、都市部などへ出稼ぎに行き、いわゆる召使いのようなことを副業としていましたが、農業の中心を担っていた男性たちは、田畑から離れることができません。
そのため、田畑からあまり離れないでも副業ができる工場勤務を選択していたと考えられます。
江戸時代、誇り高き武士の副業は〇〇だった!
<武士は副業で寺子屋を運営していた>
学生時代のアルバイトとして、学習塾の講師や、家庭教師を経験したことがある人も少なくないでしょう。
実は、江戸時代の武士たちも、生活のために、当時の学校である寺子屋を運営していました。
寺子屋の運営自体は、僧侶が最も多く手掛けており、次いで平民の割合が高かったものの、武士も兼業として寺子屋運営の主軸を担っていたのです。
関山邦宏(1997)によると、江戸近郷の寺子屋において、師匠の身分を名乗っていた者の内訳は、
”平民58.4%、僧18.4%、武士17.9%、神官・医師2.7%”
でした。
(引用元:関山邦宏 江戸近郷の寺子屋について)
寺子屋で子どもたちに読み書きそろばんを教え、副収入を得ていた武士は少なくなかったということです。
<ニワトリの卵を売って生計を立てる武士も>
武士の中でも下級武士の副業で多かったのが、養鶏の仕事でした。
つまり、ニワトリの卵を売って、そのお金を副収入にしていたということです。
下級武士が結婚し、子どもを設け、さらに使用人(下人)までつけていた場合、今でいう給与所得のみでは、ゆとりある暮らしは難しかったのでしょう。
実際に鶏卵を販売するのは、妻や下人だったようですが、現代なら庭に小屋を建ててニワトリを育て、卵を直販するといった副業になるでしょう。
<地元の名産品をつくって販売するという副業も>
基本的にモノを販売するのは商人の仕事だった江戸時代ですが、少しでもゆとりのある暮らしを実現するために、武士の中には地元の名産品をつくって販売し、商業を副業にしていた人もいました。
江戸時代には、日本は既に大量の紙を消費しており、紙の需要が高かったことが、紙の生産に武士が携わっていたことの背景にあります。
たとえば、高級紙を生産していた薩摩藩では、「郷士(ごうし)」と呼ばれた下級武士が、副業として紙の生産を積極的に行っていたそうです。
郷士は元々、農業を兼業している人も多く、高級紙の生産・販売を副業とする武士は珍しくありませんでした。
<武士は意外と器用だった?ニットを編んで副収入を得ていた人も>
武士というと、硬派、不器用…という固定観念がある人も多いのではないでしょうか。
そのような固定観念を覆すような武士の副業がありました。
それが、ニットの生産・加工です。
秋山勝男(1997)によると、
“当時は鉄串を棒針として足袋や手袋等を手編みしたもので、本格的な生産は明治になってから”
とあり、当時の武士の内職の様子が記されています。
(引用元:秋山勝男 東京のアパレル産業の現状)
武士が器用に足袋や手袋を編み、生活費の足しにしていたことを考えると、切実な環境に抗うために努力するという姿勢に共感を覚える人も多いでしょう。
副業を許されていたのは下級武士だけ?江戸時代も旗本以上は副業を禁じられていた
<2018年にようやく副業が解禁された現代日本>
2018年1月31日、日本政府が就業規則のモデルを改定しました。
それまでは、就業規則の中に「副業禁止」に関する事項が盛り込まれており、多くの企業はこの政府のモデル就業規則に則って就業規則を作成していたため、ダブルワーク、副業、兼業を禁止する企業がほとんどだったのです。
ところが、2018年に新たなモデル就業規則が発行され、そこでは既に、副業を禁じる文言がカットされていました。
つまり、日本政府自体が副業を容認しており、本業でも副業でもいいから、たくさん働いて稼ぎましょうという体制を作ったということになります。
<江戸時代の武士は副業を禁止されていた!許されていたのは下級武士のみ>
この記事でご紹介してきた武士の副業の中で、下級武士が実践していたものが多いのには、理由があります。
江戸時代には内職と呼ばれていた副業は、武士だけの収入では生活が苦しかった下級武士にのみ認められた行為だったのです。
下級武士の中には、副業をしても家族を養うことが難しく、子どもを養子に出したり、子どもを働かせたりして何とか生活している人も少なくありませんでした。
石高一万石以下の「旗本」と呼ばれる武士になると、多少は食えるようになる…という記録もありましたが、同じ旗本でも下級の場合はそれでもまだ貧しい家庭も多く、副業をしていた武士もいました。
旗本までいくと、立場もあるため、もう鶏卵を販売したり、ニットを編んで販売したりするわけにもいきません。
<三味線を弾き、唄を歌って小銭を稼いだ武士も>
内職のできなくなった下級旗本は、高級旗本の前で特技を披露し、「おひねり」を副収入として生活費に補填していたという人もいたのです。
特技は武士によって異なったようですが、酒の席で上級旗本以上の武士の前で三味線や唄を披露することを副業としていたのでしょう。
何かを製造・販売するような商人的な副業ではなく、カタチのない芸を売る副業は、副業を禁じられていながらも生活が苦しかった下級旗本の生活を支えていたのです。
本業の所得だけで、裕福に生活できる人がほんの一握りであるのは、今も江戸時代も変わらないようです。
今も江戸時代も、オヤジ世代の男性は様々な副業に挑戦し、副収入を得ていました。
地場産業や特技を副業にするあたりは、2019年の現在でも応用できそうです。
副業を考えている人は、参考にしてみてはいかがでしょうか?