そもそも「お茶屋」とはどういうところなのか?
- 2017/10/28
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よくわからない街、京都
仕事だったり趣味だったり、京都へ出向くたびに驚かされるのが海外からの観光客の数。
昔から国際観光都市と呼ばれていた土地ですから、外人さん自体、全く珍しくはなかったのです。しかし近年、その数のおびただしいこと。石を投げれば外人さんに当たるとのが、全く比喩表現にならないぐらいの外人さんがてんこ盛りなのです。
そんな光景を見ていて思うのは、彼らの目には京都の姿がどう映っているのか? ということ。
というのも、日本に生を受けて育った、生粋の日本人の犬助でも、未だに京都の実情がつかめずにいるから。何ともよくわからない街ということぐらいしかわからないからです。
京都・先斗町であった出来事
今から30年ほど前のこと、犬助は1年ほど京都に住んでいたことがあり、石畳の路地に惹かれて先斗町をよく散歩したものでした。
「先斗(ぽんと)町」、京都の市街地を南北に流れる鴨川に沿うように造られた街、今では数少なくなった、お茶屋が軒を並べる花街です。
犬助がそこを散歩していたら、お茶屋の中からお婆さんに声をかけられました。
「お兄さん、ちょっと休んでおいきやす」……うだるような暑い日で喫茶店で涼みたい頃合いでしたから、思わず休んでいきそうになりましたが……曖昧な笑いを浮かべて、犬助は足早にそこを立ち去りましたとさ。
お茶屋とは、何をするところなのか
ここで注意すべきは「お茶屋」という言葉。水戸黄門で、うっかり八兵衛が団子を頬張っていたのはタダの「茶屋」、お茶屋とは団子を出すところではありません。
芸妓や舞妓を呼んで遊ぶ場所を提供してくれるのがお茶屋、いわば貸宴会場的なものですね。
そんな前時代的なお店が軒を並べる先斗町を散歩していたら、そこのお婆さんに休んでいくように声を掛けられた。
というだけの話なのですが今思い返しても、何とも解せないのです。そこで、若き日の犬助が休んでしまったら、どうなっていたのか? ということを。
茶屋で一服と大いに違う、お茶屋での一服
お茶屋で休むとするならば、当然そのお婆さんは、仕出しを近くの料理屋から取ったことでしょう。芸妓や舞妓を手配したでしょう。舞えや歌えやの大宴会となったでしょう。
そうなると、数10万円の費用は請求されるはずなのです。
それだけの財力が犬助にあったのか? 当時はしがない貧乏学生、一晩で数10万円など払えるはずもありませんし、払える様に見える身なりをしていたわけでもありません。
にも関わらず、休んでいけとはどういうことだろうか?
大体、その手のお茶屋とは一見さんはお断りのはず。他の常連さんの紹介でもなければ、相手にもしてくれないはずなのに、向こうから声を掛けてきたとはどういうことなのだ? という。
あの頃だから、あった出来事だったのかも
単に、お茶屋も暇だったのではないか? だから、通りすがりのお茶屋などとは、全く縁もない貧乏学生をからかって遊んでいた、というだけのことなのかもしれません。
でも、格式とやらを重要視する先斗町のこと。お茶屋が客引きなどをしていたと噂になった日には、この後の商売が非常にやりにくくなることこの上ないと思うのですが、いったいあれは何だったのだろうか? という。
何とも京都の奥深さ、恐ろしさを感じた出来事だったのです。
今では中国人の大金持ちが訪れて、お茶屋さんも大忙しだと聞きますから、通りをいく学生をからかって遊んだりはしないでしょう。
外人さんも今ほどは多くない、バブルも弾けたあの時期だったからこその出来事だったのかも知れません。