粋・イキとスイ、東西文化の違いを落語で学ぶ
- 2017/01/12
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上方では粋と書いて「スイ」と読む
粋と書いて「イキ」と読むのは江戸なのですが、これが上方、つまり関西圏へ来ると「スイ」となります。両方ともカッコいいという意味ではあるのですが、まあニュアンスがずいぶん違う。
ではスイとは何なのか?漫画家で江戸風俗研究科の杉浦日向子氏によると、スイは「吸うに」通じ、身の回りのものを取り込み、血肉として自分を磨いていく行為だそうで、例えば芸事で磨かれる自分の立ち居振る舞いなんかはスイになる、厳しい修行、学び足していくことにより出来上がるのがスイなのです。
例えば吉本新喜劇……出演者のギャグと呼ばれる持ちネタは、長い間舞台で披露され続けることによって、笑いを取れる形に磨いたもの。これをスイと考えることができる……どうです?わかりやすいでしょ。
江戸っ子だねえ、イキだねえ
一方でイキとは何か?これも同じく杉浦氏によると、イキは吐き出した「息」に通じるといいます。この息のように、人の体の内からにじみ出てくるようなものがイキであるという。足していくのではなく、逆に削って出てくるものがイキ。
うーん、難しい。「江戸っ子だねえ、イキだねえ」という表現でもわかる通り、生まれという自分にはどうしようもない点がイキに占める部分が大きいのか、スイのように後天的に身につけるのは難しいのか。
落語で実感したイキとは?
そこで、イキには無縁だった関西圏の住人がイキを実感した話です。
ちょっと前のことなのですが、柳家小三治氏の噺を聞く機会に恵まれました。この時の演目は「野ざらし」、釣りにいった男が髑髏を釣ってくる、これを供養した所、夜中に美人が訪ねてきて、それは実は釣り上げた髑髏……というストーリー。そんな男の様子を羨ましく思った友だちも、同じように髑髏を釣り上げてきたのだが、これが石川五右衛門のものだったからさあ大変、という滑稽話。
これは元々、上方落語の噺で友だちの所に深夜、五右衛門が訪ねてくる下りなんか爆笑に次ぐ爆笑なんですけれども小三治氏は、そこまではやらない。これから笑えるぞという、ちょうど手前でやめてしまったんですね。
努力の跡を見えなくする=イキ
ははーん、これがイキなのか。そんなふうに感じました。
「さあ、笑わせるぞ」と力んでしまっては格好が悪い、さあ、笑わせるぞという気負いを感じさせずに、飄々とした芸風で客席を沸かせる。そんな小三治氏の姿こそ江戸のイキなんだな、と。
かのマエストロ、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮を「派手な音をつくりだそうとしているから嫌いだ」とバッサリと切り捨てたという小三治氏、つまりカラヤンはイキではないということで、どちらかというとスイに分類されるんですね。
先ほどイキは後天的に身につけるのが難しいものといいましたが、これは何も小三治氏が稽古を積んでいないいうわけではなく、稽古をしたという跡が見えてる芸はイキではないということ。白鳥が水の下で必死であがいているがごとく……なのです。
サービス満点のカッコよさ=スイ
さて、その小三治氏の後に高座に上がったのは桂ざこば氏、こちらの演目は「子別れ」、もともとは江戸落語の人情噺。まあ、ざこば氏らしくサービス満点。大いに笑わせてもらったし、ホロリとさせてもらった。なるほど、こちらはスイなのですね、笑って泣いて……といったところです。
イキもスイ、どちらも粋な訳で
まあ、小三治・ざこば両氏のコントラストが見事に出た落語会だったなあと、同時にイキとスイ両方を理解する、非常に貴重な機会だったなあと。
で、カッコいいオヤジになるにはどちらを志向するべきかなどとも考えていたのですが、まあイキならばそぎ落としていくという過程での鍛錬が、スイならば付け加えていくという過程での鍛錬が必要と感じた次第で……。まあ、小三治・ざこば、カッコいいオヤジ2人を並べて鑑賞できたのは、東と西のカッコよさを勉強するいい機会でありました。
お後がよろしいようで……。