歌舞伎の大名跡、市川團十郎を考える
- 2019/02/21
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團十郎はなぜ、歌舞伎界のビッグネームなのか?
「今夜俺んちダメだわ、團十郎いるんだった」
とは、夜な夜な悪い仲間と遊びまわっていたころの市川海老蔵氏の言葉。友人に「お前ん家で遊ぼうぜ」と振られて、この様に返したといいますね。そして「團十郎、怖ぇーんだよ」と続けたとか。いうまでもなく、ここでの團十郎とは12代、海老蔵氏のお父上のことです。
そりゃあ怖いでしょう、市川團十郎。何といっても歌舞伎の大名跡、江戸時代には「芝居の氏神」と呼ばれ、「宗家」と呼ばれるお家柄のトップ。代々歌舞伎を生業とする家は多いですが、宗家などと大それた呼び方をされているのは市川團十郎家のみなのです。
なぜ市川團十郎が、そこまで有難がられるか?というと、初代が歌舞伎を現在の形に改めたから。安土桃山時代の出雲阿国に始まった歌舞伎に大変革をおこなったからです。
歌舞伎の変革者としての初代團十郎
その変革とは、顔に「隈取(くまどり)」をほどこしたこと。
歌舞伎と聞いて誰もがイメージする、役者の顔に施される隈取。これは初代團十郎が1673年の初舞台で坂田公時を演じた際にほどこしたのが最初だといいます。
そして「荒事(あらごと)」を始めたこと。
隈取をほどこした出で立ちで、初代團十郎がおこなったのは大立ち回り。派手好きの江戸っ子は大喜び、やんやの喝采を浴びたといます。つまり現在の歌舞伎でも重要な2つの要素、隈取、荒事は初代團十郎に始まっているのです。
初代は荒事をさらに進めて「宙乗り(ちゅうのり)」まで始めてしまいました。
体を縄で吊り下げる、今でいうワイヤーアクション、ここまでやったら人気が出ないわけがないのです。
初代團十郎の型破りさは、父親譲り?
それまでの歌舞伎の型を破る大変革、舞台から遠く離れた客席にも伝わる團十郎は大評判、江戸で大変な人気となりました。これだけ斬新なことを思いつく團十郎、芝居を代々研究し続けてきた役者一家の出か?というと、実はそうではありません。といいますか、どちらかというと良くない家柄。彼の父親は人呼んで「面疵(つらきず)の重蔵」、顔に傷があるってどう考えても堅気ではなさそう。歌舞伎に大変革をもたらした初代團十郎の型破りさは、父親ゆずりだったのかもしれません。
そんな初代市川團十郎なのですが、この世を去ったのは1704年、44歳という若すぎる死でした。役者仲間の生島半六による刺殺、場所は舞台上とも、出番待ちの休憩時間ともいわれていますが、はっきりしたことはわかっていません。稀代の人気役者の突然の死に江戸の街は騒然となったはず。生き様までも團十郎は型破りだったのです。
海老蔵氏だからこそ、團十郎にふさわしいのだ
夜な夜な悪い仲間と遊び歩いたり、女に関するウワサが絶えなかったり、あこがれの役者は勝新太郎氏だとのたまったり、たまたま相席になった赤星憲広氏に腕相撲を挑み、割って入った鳥谷敬選手に瞬殺されたり。市川海老蔵氏に関するウワサは正直芳しいものではありませんでした。「歌舞伎の大名跡である團十郎を継ぐ人間が、あれでは」などと嘆く声もよく耳にしたものです。
しかし考えてみれば、役者に品行方正さなど誰も求めてはいないもの。要は良い芸を見せてくれればいいのですし、楽しませてくれればいいのです。大体、初代團十郎にしても今まで述べたとおり型破りな人間、常識に反することを次々にやったからこそ、現在の大名跡となり得たと考えることができる。よろしくないウワサが数多い、現在の海老蔵氏と通じるところがあると、考えることもできるのです。
そんな市川海老蔵氏が、13代の團十郎を襲名するのは来年の5月。初代を髣髴とさせてくれる、スケールの大きな役者になることを祈りましょう。