なぜアスリートはゴールを目指すのか?

  • 2018/11/18
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中継所まではっていった女子選手

先日行われた駅伝において、はいずりながらゴールした選手についての話題が若干の広がりを見せているようです。

10月に行われた全日本実業団対抗女子駅伝の予選会で、岩谷産業チームの第2区間走者を担当した飯田怜選手が、第3区間走者が待つ中継所の200メートルほど手前の地点で走れなくなりました。

しかし、目の前にある中継所を目指して、飯田選手はよつんばいの状態で進み、第3走者にタスキをつないだのです。

中継所まではっていった女子選手
ヒザをついて進む状態になったため、負傷して出血しながらの壮絶な“ゴール”となりました。チームは最下位になったあと、少し順位を上げてレースを終えています。

その件で、早速というべきか「あれやこれや」の意見が飛び交っているわけです。その一部を見てみます。

・最後まで諦めない精神力に感動した。
・チームのために頑張る姿は素晴らしい。
・体調管理ができていなかったために起きたことでは?
・怪我をしてまで続けることか?
・周囲の関係者はなぜ止めなかったのか?
・やめたくてもやめられない雰囲気があるのでは?
・本人が頑張っていることがすべて。

など、賛否両論であり、その対象も選手本人であったり、関係者であったりとさまざまです。この飯田選手は若干19歳であり、オヤジ世代としては娘のような年齢といえます。

将来あるという文言は、年寄りはどうでもよいのかという反発を招きやすいですが、実際に娘のような将来のある選手ですから、辞めさせるという選択もありだったでしょう。実際に、大会本部にいた監督は棄権を伝えたといわれています。しかし、その伝達がうまくいかなかったことで、中継所に到達したのだとか。

選手のそばにいた関係者は、すぐそこにゴール(中継所)がある状況で、選手本人がなんとしてもゴールするという意思を見せ、前進している姿を前にして、止めることができなかったようです。それも人情でしょう。

第2区間走者を担当した飯田怜選手

 

スポーツにおける合理性と根性論

スポーツは科学であり、合理的に行われるべきものであることは間違いありません。無駄に心身を浪費するようなものは、スポーツと呼ぶに値しないでしょう。朝日新聞社と高野連が主催している夏の甲子園なども、真夏に連投させる興行として批判を招いています。

もっとも、練習中に水を飲んではいけないという指導者こそいないでしょうが、現在でも根性論の好きな人は珍しくありません。なぜなら、根性なくしてスポーツは成り立たないからです。ただし、この場合の根性は、科学を否定するものではなく、両輪をなすものといえます。何事も、気持ちがなければ続かないということです。

さて、駅伝の件ですが、走れなくなったのは骨折によるものだったそうです。いずれにしても、その時点で棄権すればヒザを負傷することもなかったでしょう。しかし、それが「合理的判断」だったかどうかはわかりません。

その後の選手の内面を無視した合理性に意味はないからです。選手はロボットではなく感情を持った人間です。棄権したことを引きずってしまうかもしれません。なにより、苦しい練習を重ねてきたのはレースのためであり、中継所にたどり着きたいという気持ちはスポーツの大前提といえます。ただの根性論ではありません。

スポーツにおける合理性と根性論
とはいえ、人の意見はさまざまであり、すべてを一致させることなどできるはずのないことです。そこで死んでしまうとか、犯罪であるとかなら別ですが、今回のようなケースはいろいろな見方があって当然でしょう。

重要なことは、ルールの明確化とルールを的確に運用できる体制の構築です。そのルールの作り方が難しいといえばそのとおりですが。

 

なぜゴールを目指すのか?

そこにゴールがあるからであり、そのために選手をやっている。自分の娘がああなったらと考えると、オヤジ世代は複雑な心境になるかもしれませんね。

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