隠蔽という日本語について考えさせられる事件
- 2017/04/07
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隠蔽するつもりがあろうがなかろうが隠蔽は隠蔽
2017年4月6日、ひとつのニュースが流れました。兵庫県にある市立小学校で、児童が全国コンクールに応募するはずの日記の一部、117人分が消えてなくなった事実を、半年以上も隠していたというものです。このニュースで放送された記者会見で、女性校長は「隠蔽するつもりはなかった」と述べています。
さて、この事件ですが、100人を超える児童の日記が紛失したにもかかわらず、発覚が遅れた背景には、学校サイドの対応があります。曰く、子供の学習意欲を削がないために、応募したことにして参加賞を配布したというのです。
ネットやSNSが発達している今日において、応募したかしていないかなど簡単にわかってしまうと考えますが、公表していないのならわからないかも知れませんね。今回は、実際に応募した分があったために発覚しにくい状況だったのかも。
この事件にどれだけの人間がかかわったのかは定かではありませんが、隠蔽とは、隠蔽の意思があるからこそできることです。もし、本当に意図がなかったとしても、この行い自体は隠蔽以外の何ものでもありません。それがわからない頭ではないはずです。そもそも、意図がなければ良いというものではないでしょう。
そして、理不尽なことが多いのが世の中だからといって、正当な評価を受ける機会を奪われたうえ、それを隠蔽される義務が小学生にあるとは思えません。大人の都合で、子供の可能性が潰されたかも知れない出来事です。
先を見通す能力こそが教育の要だ!
学校や教員たちの思惑がなんであれ、このまま永久に発覚しなければ、それはそれで良かったのかも知れません。しかし、中途半端に発覚してしまったことによる影響を考えていない点が問題です。このような工作が行われていたことを知った児童や保護者の心情だけでなく、子供に何を教えるのか?という話です。オヤジは怒っています!
事実として、子供たちの作品は参加賞と引き換えに闇に葬られたのです。また、参加賞は主催者から参加分に加算してもらったそうですが、主催者には何と説明したのでしょうか?釈然としません。
自分の子供が、このようなデタラメな学校に通っていたとしたら、安心して任せることなどできません。本当に子供のことを考えての所業だったのであれば、最後までばれないように騙し続けろ!とさえ言いたくなるような杜撰さです。この市の教育委員会は、判断ミスという言葉を使っているようですが、単純なミスでしょうか?正直であることを教えるのが初等教育ではないのかも含めて、お粗末に過ぎます。知らぬが仏状態にされた子供たちが不憫にさえ思えます。真相の究明が待たれるところです。
直接的に関係のある保護者であれば、言いたいことがあっても子供が不利な扱いを受けるのではないかとの懸念から、声を上げることができないという可能性も考えられます。教育現場が良くなるためなら、接点の無いオヤジが関心を持っていたいものです。