副業推進→禁止→ふたたび推進へ!明治~令和時代に栄えた副業の歴史

  • 2019/07/02
  • ビジネス
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  • 小室直子【キャリアのプロ】
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2018年に日本政府が提示したモデル就業規則によって、実質的に副業が解禁となりました。実際に副業を検討したり、本格的に始めたりする人も多いのではないでしょうか。
しかし、現代日本よりも昔の日本では、副業は推進されたり禁止されたりという歴史を繰り返しています。温故知新という言葉通り、解禁されたばかりの副業が今後どうなるかを予測するためにも、日本における副業の歴史を振り返ってみましょう!

 

【江戸時代、副業は一部を除いて黙認されていた】

江戸時代、副業は一部を除いて黙認されていた
江戸時代には、士農工商のそれぞれが副業を行っていましたが、一部副業を禁じられていたのが武士です。
「武士は食わねど高楊枝」という言葉がありますが、本当にまともな食事を摂ることができないほどの給料(当時でいう“俸禄”)しかもらえない武士は多く、副業でもしないとやっていられなかったようです。

ところが、旗本以上の武士は副業を禁じられており、たとえ生活が苦しくても、文字通り清貧生活を送っていました。
一方、農民は富山の薬売りのように売薬を副業にしたり、農業が一段落する時期には工場で勤務したりして小銭を稼ぐなど、比較的自由に副業で生活をしのいでおり、現代と比較しても副業にはかなり寛容な時代だったと言えます。

前回の記事「江戸時代にも副業があった?!武士や農民の暮らしを豊かにした副業の歴史」参照してください。

 

【開国と同時に新たな副業の幕開け】

鎖国と呼ばれる時代を経て、1854年(嘉永時代)に日米和親条約が締結され、開国への運びとなった日本。
国内でほぼ完結していた日本経済は、否応なく世界経済へと発展することになります。

この頃の日本は、生糸・製糸業が盛んでした(浅田毅衛 開国と明治期の日本貿易)が、とりわけ養蚕がそれほど盛んではなかった時期は、農業を生業としていた人が副業として養蚕をしていました。

群馬県農政部蚕糸園芸課調べによると、明治21年には総世帯数が131,430戸のうち、農家戸数が110,831戸、養蚕戸数が74,451戸でした。
農家戸数の多かった明治時代には、天候の影響によって収穫量ひいては収入に並みのある農家にとって養蚕という副業が適していたのでしょう。

 

【大正時代…貧しい生活を支えたのは、オヤジたちの本業とオンナたちの副業】

日露戦争の後、大正時代の日本人の労働は、生糸から重工業へとシフトしていくことになります。
重工業といえば製鉄や造船業がメインとなるため、肉体労働の重さや当時の社会的風潮から、やはり男性が重工業に専念していました(永藤清子 明治大正期の副業と上流・中流家庭の家庭内職の検討)。

女性は家事・育児に専念しながらも、重工業が発展するまでは生活が苦しく、夫の工賃だけで生活することは困難でした。
そこで日本が副業を推進したのは、本業に専念してほしい男性ではなく、女性だったのです。
当時は「内職」という扱いで、できるだけ特別なスキルがなくてもできる副業(毛糸編み、レース編み、鼻緒、熨斗折など)を家庭内で行うように推進していました(讀賣新聞 大正15年12月16日)。

女性は働かない時代…と思われがちが大正時代ですが、実は重工業で疲弊した男性の影で、女性も副業をいくつも抱えながら生活を支えていたのです。

 

【副業は終身雇用してくれる企業への裏切り行為!副業が悪者になった昭和】

文明開化とともに、着物から洋服へ、ちょんまげから散切り頭へと移行していった日本。
この頃になると、生糸の生産はもはや需要とともに副業から本業へと移行していきます。
それまで農家を営んでいた人も、農家をやめて生糸の生産に切り替える人が増えたのです。

第二次世界大戦前・大戦中は副業どころではなかったのは言う間でもありません。
しかし、この第二次世界大戦後、日本は高度経済成長期を迎えます。
高度経済成長期の象徴といえば、令和の現代では確約のなくなった「終身雇用」ではないでしょうか。
一度入社すれば、定年退職まで安定した給与所得があり、退職金まで至急されるという終身雇用システムは、副業をタブーとする風潮を生みだしました。

副業は、一社員の生活を考え、生涯にわたって所得を保障すると言ってくれている会社への裏切り行為のようにとらえられるようになったのです。
そのような風潮があるだけで、本当に副業を禁止する企業は少なかったのではないかという人もいますが、厚生労働省の調査によると、調査対象の企業のうち、85.3%の企業が副業・兼業を認めていないと回答しています。

 

【裁判所は副業を本当にタブーとしたのか?副業に関する判例の歴史】

前述のように、昭和の時代には副業が悪しきもの、雇用主への裏切り行為のようにとらえられていた日本。
副業が本当に違法行為になるのかどうかを知るためには、裁判所での過去の判例を参考にするのが一番でしょう。

<昭和57年 小川建設事件>
終業後の18時から深夜0時にかけて約6時間、キャバレー勤務を副業としていた人が、就業規則によって懲戒処分になるところを通常解雇となりました。
これに対して、通常解雇にも不服とした副業をしていた労働者側が企業側を訴えました。

しかし、このケースは労働者の敗訴となりました。
理由は、確かに終業時間を過ぎて自由時間となってからの副業であるものの、副業の勤務時間が深夜を回っており、本業に支障をきたす可能性があることから、企業が就業規則で禁じていた二重就職に触れるであろうということでした。

退勤してしまえばあとは自由時間。そのためその後の時間にアルバイトをしてもよい…というわけではなく、アルバイトの内容や時間帯が判決に影響を及ぼしたケースです。

<昭和47年 昭和室内装備事件>
時間外労働や休日出勤を廃止した企業に勤めていた企業が、社員の収入がこれによって下がらないように善処するために特別手当を支給していました。
この企業に勤務していた労働者が、勤務時間外とはいえ、企業の許可なく他の企業で就労したため懲戒解雇処分となったそうです。

ところが、労働者は勤務時間外なのだから、二重就職には当たらないと主張。
結果的に、このケースも労働者の敗訴となりました。

理由は、そもそも当該企業が時間外労働や休日出勤を廃止しようとした目的が「労働者の肉体的疲労回復」「生産性の向上」だったからです。
労働者は、残業や休日出勤を免れる代わりに、終業後の時間をリフレッシュ、疲労回復にあてるべきだったにも関わらず、より疲れる副業に手を出していたため、敗訴となったのです。

以上の判例から見ると、就業時間外は労働者のプライベートであるという認識は多少ありながら、やはり本業に支障をきたす恐れがあるという理由で、副業はかなり厳しく制限されていたように見えます。

 

【平成から令和にかけて副業解禁、そして推進へ?】

昭和時代には厳しく法的にも律せられていた副業。
ところが、終身雇用という鉄壁があったからこそ会社一筋で貢献してきたオヤジたちは、平成になって大きく動揺することになります。

平成になると、昭和とは逆に終身雇用が絶対的ではなくなってしまったからです。
特に令和に入ってからの日本では、トヨタ自動車の社長・豊田章男氏が「雇用を続ける企業などへのインセンティブがもう少し出てこないと、なかなか終身雇用を守っていくのは難しい局面に入ってきた」

と言及しました(引用元:日経ビジネス)。

終身雇用が絶対ではない令和のこの時代では、むしろ副業を始め、継続して、何かあった時の命綱にする必要があります。
労働のリスクマネジメントの一環として、副業は今、大正時代以降ふたたび推進されるようになってきているのです。

この記事の作者

小室直子【キャリアのプロ】
小室直子【キャリアのプロ】
専門学校・大学で心理学とキャリアに関する講義を担当。 若年層から高齢者まで幅広く転職支援も行っています。 ミドルエイジのクライシスを乗り越えるためのアイディアを提供していきたいです。
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