戦わない日本代表とミケルソン「2打罰」事件に共通点はあるか
- 2018/07/05
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愚行と非難される「ルール内の行為」
いちおう説明のために書いておくと、サッカー日本代表がグループリーグ最終ポーランド戦で後半残り10分から敵陣に攻め込まなくなり、相手のポーランドもそれを「容認」したかのような試合展開に、観客がブーイングの嵐で応えた件。
かたや、ゴルフPGAの大スター、フィル・ミケルソン選手が先頃の全米OPで「グリーン上でまだ動いている球を故意に打ってあえて自ら2打罰を選択した」プレーに観戦記者たちが一斉にかみついた件。
スポーツにはさまざまな状況を想定した「ルール」があり、選手はそれに従う形でプレーをするのだが、今回のこの2件についてもし共通する問題点があるとすれば、いったいそれは何なのだろうか。
あえて自らの不利を容認してもなお責められるのか
日本代表の採った方針が100%「自らを利する」行為であったかといえば、疑問の余地が残る。
というのは同時刻別会場で行われたコロンビア対セネガル戦の結果次第では、この牛歩戦術?は無駄に終わる可能性もあったからだ。
サッカーには、バスケットボールNBAにおける「24秒ルール」のような、どうしても攻めることを強要されるルールはない。
よって状況次第(負けを認める、リーグ戦である、など)では容易に考えつくチーム方針であり、観客のブーイングを「抜きにして」見れば、れっきとしたルール内の行動といえる。
その上、徒労に終わる可能性、リーグ通過順位を2位に落として進出する次の相手の強さ(次戦は別グループ1位との対戦)など、よくよく見ればかなりのリスクを背負い込んだプレーでもある。
またミケルソン選手に至っては、もっと「自らにリスクを課す」プレーだったともいえる。
「このままグリーンをこぼれてしまえばとんでもないトラブルになるから」と、故意に回避したことは自らの利益であるが、ゴルフのルールには「委員会の自由裁量権」が認められており、個々の事例に沿って罰を修正することができる。
つまりあれは、ミケルソンが自分で考えた以上の「大きな罰=競技失格」を受ける可能性もあったプレーなのだ(彼がここまで知っていたかは疑問)。
スポーツで許されない故意違反はどこからなのか
おそらくファンの心理としてモヤモヤするのは「両方ともスポーツ選手でしょ?だったら、それらしく振る舞ってほしい」という清廉潔白さが求められるからかもしれない。
すぐ目の前に栄光や名声がぶら下がるトッププロスポーツにおいて、選手が瞬間的に「良い、悪い」と判断しながらプレーしろと義務づけるのは、簡単なようでアドレナリンも手伝ってちょっと現実的ではない。
試合中に突然机上の話し合いで「こうしたいけど許してくれる?」とお伺いを立てることもできないし(ゴルフは似たことができる)。
プロスポーツにおいて、ルール内の行為にもかかわらず、プレーが卑しく見えたり、反社会的に見えるのであれば、それはルールの未熟さゆえのことだ。
紳士協定や道徳も結構だが、瞬間的に体を動かすスポーツでは、選手の本当の想定外行為がいつでも起こりうる。
どんなメジャースポーツでも、ファンが「ええ〜?!」と声を挙げる状況とは、いまだ熟成し切れていないルールの闇が存在する証だ。
許されないとか、OKだとか「だれに対して」のエクスキューズかといえば、それは日頃からプロスポーツ人気を支えてくれるファンに対する言葉のはずだろう。
やり逃げとやり得だけは許すな
オジサンが好きな競馬の世界には数年前から「到達順位の尊重」という方針が加わり、原則的に「騎手のラフプレーがあっても、レースで馬が示したパフォーマンスを尊重して順位を決めていく」ことになった。
つまりラフプレーをした関係者を「後で」厳しく罰するものの、1着2着3着…という着順には原則手をつけない、というものだ。
これ、競馬を知らないサッカーやバスケのファンが聞いたら、どう感じるだろうか。
大げさに言えば「今の得点は入ったまま。ファールをした選手には『後ほど』厳しいお沙汰が待っている」というのだ。
いかにも試合終盤、なにか起こる気がしませんか?
とはいえ、それもルール。
すべてのスポーツはルールの上に成り立つもの。
ただし、たとえスーパースターだろうがチャンピオンだろうが、故意にやった人だけが得をし、おとがめもない「やり逃げ・やり得プレー」だけは許さないと、ファンはこれからも声を挙げていってほしい。
ひいてはそれが選手の今後のためにもなるのだから。