超有名・戦艦大和は太平洋戦争でどんな戦果をあげたのか
- 2017/07/17
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知名度だけは抜群の「大和」とは?
戦艦大和の名は、戦争や兵器に無関心のオヤジにも広く知られていると考えられます。オヤジのみならず、日本人なら多くの人が知っている唯一の軍艦。それが戦艦大和でしょう。実は、この大和は大和型戦艦の一番艦・ネームシップであり、二番艦に武蔵があります。また、三番艦として信濃が建造されていましたが、途中で航空母艦に変更されています。これらの話にまで広げると、知っているオヤジの数はかなり減るのではないでしょうか。ちなみに、宇宙戦艦ヤマトは実在しません!
さて、知名度は抜群の大和ですが、そもそもどのような軍艦であり、どういった活躍をしたのかはあまり知られていません。映画「連合艦隊」や「男たちの大和」で沖縄への海上特攻を行ったことはある程度知られていますが、それ以外はどうでしょうか。
まず、大和のセールスポイントは46センチ主砲を搭載(3連装が3基で計9門)していることです。基本的に、当時の主要各国の軍艦は自艦が搭載している砲に耐える設計が施されています。つまり、大和型戦艦の場合は46センチ主砲弾を撃ち込まれても大丈夫だという設計思想です。そして、当時の外国には46センチもの主砲を搭載している艦はありませんでした。また、対艦巨砲主義の終焉にともない、現在でも史上最大の艦載砲であることは変わりありません。
従って、大和はどの国の艦の砲撃にも耐えられる艦であり、同時に、大和の主砲攻撃に耐えられる外国の艦艇は存在しないことになります。まさに、世界最強の軍艦が大和であり、大和型戦艦だったのです。
時代に恵まれなかった大和
さて、対米戦の幕開けが南雲機動部隊による真珠湾攻撃であったように、開戦初頭から戦艦の活躍の場は多くありませんでした。その後、大和が戦列に加わった頃には、益々出番がありません。南雲機動部隊が壊滅した1942年のミッドウェー海戦には、主力部隊(連合艦隊旗艦)として出撃し、機動部隊から離れた後方にいたものの、戦機を逸してしまい帰国することになります。
巨大であるため燃料の消費が激しい割に、戦果を期待できる(出撃に見合う)作戦が少ないことから泊地にとどまることが常となった大和には、他艦と比較して豪華な設備もあり「大和ホテル」との呼び名がついたともいわれています。
姉妹艦である武蔵とともに出撃した1944年のレイテ沖海戦が、敵艦隊への砲撃を行った唯一の戦艦らしい戦闘だったといえます。しかし、既に劣勢だった海軍にあって、大きな戦果をあげることはできませんでした。他艦との共同で駆逐艦を撃沈したくらいだと考えられます。ただ、俗に謎の反転と呼ばれる栗田艦隊の戦闘中止がなければ、もう少しは華々しい戦果が得られたかもしれません。
結局、配備以来たいした活躍をすることもなく1945年を迎えた大和は、ついに最後の任務に就くことになります。大和の他には、一個水雷戦隊の戦力しか持たない海上特攻作戦です。沖縄へ到達することなく、坊ノ岬沖海戦で最期を迎えた大和。生涯にあげた戦果はわずかなものですが、対米戦のほぼ全般を通じて海軍の象徴的な役割を果たしています。
国民レベルでは機密事項であった大和を知る者は少なく、存在があることを知っている者でも、その詳細はもちろん、姿を見た者も極めて限られていたようです。戦時においては戦ってナンボ、敵をやっつけてナンボの軍艦にあって、戦果よりも技術力と象徴的な意味合いが大きかった点で、大和は特殊な軍艦だったといえるでしょう。