ただ忌み嫌うだけでなく、タトゥについてもっと知ろう

  • 2019/02/22
  • ライフスタイル・娯楽
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  • アントニオ犬助
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日本人とタトゥの歴史は、魏志倭人伝の昔から続く

日本人とタトゥの歴史は、魏志倭人伝の昔から続く
プールや温泉など、公共の場でのタトゥはどうなの?
気軽に若者がタトゥを入れる風潮の高まりや、外国人観光客の増加にともない、しばしば話題になりますね。私、アントニオ犬助も未だにをタトゥを見かけるたびに、緊張してしまいますから、できれば公共の場では勘弁して欲しいと思っている一人なのですが、その前に知っておくべきは、その歴史。日本人にとってタトゥは、昔から非常に親しい存在だったという事実です。

日本人とタトゥの関係について表した文献の中で、最も古いものといえば「魏志倭人伝」の「男子無大小、皆黥面文身」という一節。男性は大人も子どもも、みんな顔や体にタトゥを入れている、こんな風に書かれています。
ポリネシア系の人たちが入れているトライバルタトゥをイメージさせますから、日本人の祖先は南方の島々からやってきたのではないか?とも思わせてくれるのですが、その後、中国から儒教が伝来すると、親からもらった体を傷つけるとは何事だ!という価値観が広まり、自らタトゥを入れる風習は廃れました。

 

江戸時代中期には、和彫が大流行

その一方で、呪術的、宗教的なタトゥはしっかりと生き残っていたとされるのですが、それが表舞台に復活するのは江戸時代。遊郭の女性たちが、贔屓にしてくれる男性客の名前を彫ったり、握手をして相手の親指が位置する場所に互いにホクロを模したタトゥを入れたりすることが流行しました。

そんな地味なタトゥが、現在も残る和彫の様な形に発達したのは江戸時代の中期。
鳶や大工、火消し、飛脚といった肌を露出することが多い職業の人たちや侠客が、カッコよさを求めてタトゥを愛好。浮世絵の影響を受けながら、次第に華やかさを増していきました。大きな絵柄を全身に彫るには肉体的な苦痛をともないますし、かかるお金も高額なもの。その様子が人々の目には粋に写ったのでしょうね。

そんな流行について、儒教を祖とする朱子学を学問や道徳の基盤としていた江戸幕府は苦々しく思っていました。そこで度々禁令を出すのですが、まあ効果がなかったとか。それほど、人々の生活と切り離せないものがタトゥだったのでしょう。

 

タトゥ=タブーとなった明治時代

さて、時代が変わって明治になり文明開化の世の中になりました。西洋に追いつくことが是とされましたから、明治政府は古い日本の風習を取り締まったもの。タトゥもその一つとなり禁止令が出たのが1872年、1948年まで非合法の存在となりました。

思うに、タトゥ=アウトローというイメージが強まったのはこの時期。にも関わらず西洋人は和彫を高く評価していたもの。ロシアやギリシャの皇太子が明治時代に日本へ訪れた際、和彫を入れることを所望。当時の日本がなくしたい文化を、西洋の高貴な方々が入れたがったという事実を明治政府は必死で隠していたとか。当のご本人たちは見事な和彫を施され、上機嫌で日本を後にしました。

 

目にする人にとっても、メリットがあるタトゥ

つまり日本人はタトゥと、2,000年以上にも渡って付き合ってきたということです。それがタブー視されるようになったのは、ここ150年ほどのこと。長い歴史から見れば、ほんの最近、わずかな期間ということができますし、その間も西洋からも高く評価されていたものなのです。つまり日本人がタトゥと親しくするのは当然ではないか?と感じるのです。

加えてタトゥには、スズメバチが自身の体の色で自らの危険性を知らしめているように、昆虫の警戒色と同じ役割が期待できます。近年では暴力団対策法の影響もあり、危険な人物が鳴りを潜めたり、一般の人に外観をなじませたりする傾向にあります。これは考えてみれば良くないもの、相手が危険とわからずに近寄ってしまい、思わぬ害を被るというケースもありますね。

ならば自身を危険だと、広く知らしめるタトゥは実は有用なものではないか?と、犬助は思うようになりました。とはいえ銭湯などで鉢合わせするのは、ゴメンなのですが。

この記事の作者

アントニオ犬助
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みんなに嫌われるジジイを目指して、日々精進中!!
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